また、日本は、ODAを利用したテレビ局などの中国のマスコミの活動に対する協力も行っています。また、中国でも多様化する視聴者の日本に関する関心に応えられるような協力も行っています。
政府機関とマスコミとの関係も含め、マスコミが置かれている環境は、日本と中国は同じではありません。他方、共通する課題を抱えていることも事実でです。日中間で一定の違い、現在、現実としてあることを踏まえつつも、公正、客観的で、総合的な見方を提示するようなマスコミの活動を行われることは、日中双方の共通の利益です。このようなマスコミ活動を支援していくことは、両国の関係者の務めだと思います。この分野で、日本政府と日本大使館は、関係者の皆様と協力して、今後ともいっそう尽力していく所存です。
御静聴ありがとうございました。
课文二 二つの故郷の間に
親愛なる皆様、本日、私の展覧会に際しての講演と映画の催しにおいで下さいましたことを心からお礼申し上げます。
この度ケルンで私の展覧会を開くことが出来ましたことは、私の最も光栄であり、幸いであると存じます。皆様は多分、不思議に思われるでしょう。日本画家である私が少しばかりドイツ語を話すことが出来るということを。
私は若い時、それはすでに約四十年も前ですが、第一回日独交換学生として、ベルリン大学でヨーロッパの美術史を学びました。東京美術学校日本画科を卒業して間もなく一九三三年から三五年へかけてドイツに留学したのです。主にベルリンに住み、ドイツ各地やヨーロッパの美術館や、風景、生活を見る旅行をしました。
私は日本画の伝統的な技術と共に、芸術家となるに必要な知識を東京の美術学校で学びましたが、若いうちに実際に西洋の美術を見たり、西洋での生活を経験したいと思ったのです。
このことは、後年、画家としての仕事をしてゆく上に大きな意義を持つものと言えるでしょう。若い時、これからの自分の人生が始まる時期に、ドイツで過ごした二年間は、私は生涯忘れることの出来ない数々の思い出を私の心に植え付けました。
私の両親の家は、日本の中でも最も気候の良い瀬戸内海の沿海である神戸市にありました。私は少年時代を、海と山に囲まれた美しい自然環境を、日本の最も古い文化を持つ奈良、京都に近い土地で送りました。私は島国である日本の、優しく、穏やかな風土の中で育ったのです。そして、感覚的な日本の美というものを、いつも身近に感じておりました。
しかし、神戸は外国との交通のために、古くから開かれた港の町であり、外国の文化を受け入れる窓でもありました。私は少年時代から西洋の文学、美術、音楽に興味を持っていました。そして、ヨーロッパ大陸の複雑な民族関係の中で発達した西洋の文化が、日本のそれよりも厳しく、激しく、知的な要素を多く持っていることに心を引かれ、それによって私の精神が鍛えられることを望んだのであります。
若い時にドイツに留学したのは、そのような希望があったからです。また、同時に私は日本の美を、日本を離れて外から眺めたいと考えたからでもあります。
こうして、私の中には日本的なものへの郷愁と、西欧的なものへの憧憬が共に精神形成の要素となって育って来たのです。私は六年前、再びドイツを訪れ、北から南へと、四ヶ月にわたって、古い町や風景をゆっくり見て廻りました。その時、私の心は、若い学生であった頃、初めてドイツへ来た時のように、活発になりました。自然がよく保護され、古い町が以前のままの姿で残っていたり、戦争の破壊を受けても、よく復元されているのを見て、ほんとうに嬉しく、懐かしく思いました。
私も最初のドイツ留学から帰国してから、悲惨な戦争を体験し、苦しみの底に沈んだのですが、戦後、ようやく立ち直って画家としての仕事を続けて来たのであります。
昔、親しくしたドイツの友人は、その後どうなったか消息がわからないのです。ベルリンで下宿していた場所へ行ってみましたが、すっかり変わっていて、近所に住んでいる人にたずねても、知ることは出来ませんでした。
しかし、ドイツの各地にある古い町々が、昔のままの姿で私を迎えてくれるのを感じ、お互いに苦しい時を越えて生きて来た喜びに、深い感動を覚えました。そして、ドイツは、私の郷愁の国であることを知ったのです。即ち、ここにも私の心のふるさとがあったのです。
若い時の私は、いわば、一人のヴァンダーブルシュ(遍歴学生)として、ドイツの生活を体験しました。二度目に来た時は、すでに年をとっていましたが、やはり、ヴァンダーブルシュであることが、望ましいと私は常に考えているからです。日本でも昔から、芸術の道には初心を忘れてはならないという教えがあります。純粋さと、新鮮な感受性と情熱が必要だということでしょう。
日本は古い国であり、約千四百年の昔、統一国家が成立しましたが、中国からの大きな影響を受けて、高度の文化が生まれたことは、現代にまで残っている文化的遺産によって知ることが出来ます。その後、江戸時代までは、各時代を通じて中国の文化が移入されて来ているし、明治以後は、西洋の文化が大きな勢で入って来ました。
日本民族は遠い昔から、外国の文化を積極的に取り入れていますが、それでは日本独特の文化は無いかと言うと、決してそうではありません。
日本人は常に外国の文化を尊敬と親愛をもって、自国に取り入れ、時には自国の民族性を見失うように見える時期もありますが、それを消化吸収して、日本独特のものを生み出して来ていることは皆様も認めておられると思います。
丁度、今、日本の昔の書の展覧会がケルンで催されていますが、中国の漢字を基にしながら、千年も前に、すでに仮名という日本独特の文字を造りだしているのを御覧になったでしょう。仮名の美、あるいは、漢字と仮名の調和の美は、日本民族が生み出したものであります。
美術の分野でも千年も前から漢(から)絵(え)――中国の絵画または中国風な絵――と、大(や ま)和(と)絵(え)――日本の民族的な好みによって生まれた絵画形式――との二つが行われて来ました。また、明治期以後、西洋からの油絵と、日本の伝統的な画風の日本画との二つが現在まで続いています。
こうして、外国からの影響を受けながら、やはり、外国には無い日本の美を創造して来たのです。それは、日本の自然環境と、民族の歴史によるものと思います。
即ち、極東の島国である日本は、古い時代から、流れ込んで来た外来の文化が、日本を通って、次にどこへ行くという道は無かったのであります。そして、この国の温和な自然の中で、徐々に民族性によって純化され、日本独特の美の姿に変貌して行く運命を持っていたと言えるでしょう。
島国という閉鎖的な壷の中で、早い時期から統一国家であった日本は、民族的な精神基盤を失うことなく、しかも、外来文化の注入によって生れる刺戟と緊張によって、新しいエネルギーを生み出し、老化を防いで来たと言えるでしょう。
私は唐招提寺の障壁画を描くに当って、奈良や大和の古い寺や神社を訪れ、遺跡や風景を見て歩いて、日本民族や日本文化の性格について、いろいろ考えました。日本民族はその成立の過程で、複雑な要素を持っています。
民族の文化の形成される遠い時代に、何回かにわたって、大陸からの民族の移動があったが、統一国家が成立した頃からは、すでに日本人としての純粋さが保たれ、今日に至るまで、変ることなく続いてきました。だから、日本人には、長い間の郷土に対する深い伝統的な愛着が強いのです。
しかし、遠い昔に海の彼方から渡って来た民族の古い記憶が、多くの日本人の意識の深い層に在って、潜在的にもう一つの故郷を海の向うに持っているとも考えられます。日本人が外来文化に対して示す親愛感と理解力は、ここに根源を持っているのではないかと思う場合もあります。
このように考えますと、私個人の中にある憧憬と郷愁は、日本人の一つのタイプを示すものと言えるかもしれません。
日本人は、明治以後にドイツから多くのものを学びました。私は、まだまだ多くの点でドイツから日本人が学ばねばならないことがあると思います。学術、芸術の世界では勿論のこと、高度の工業の発達と共に、自然環境と人間生活を護る対策などについては、殊にドイツはすぐれています。また、古い間の保存、復元については驚嘆に値します。
私はドイツの各地を旅行して、よく保護された自然と、保存された古都を見て感動しました。それはドイツの人々の、人間を大切して、愛する心の深さの表れだと思います。
私は六年前の旅行を記録した著書を『馬車よ、ゆっくり走れ』という題名で四年前に出版しました。また、『窓』という画集を出版しましたが、これは、ドイツの家の窓は、中に住む人と外を通る人の、人間の心の通う窓であることをテーマとしたものです。
私はドイツの人の温い心を日本人に多く知らせたいと思ったのです。日本ではドイツ人の優秀さをよく知っていても、外を通る人のために、又は町の美観のために、窓辺に花を飾る優しい心を知る日本人は少なかったからです。
今では、かなり多くの日本の人々がドイツの大都会ばかりでなく、地方の小都市をも旅の対象とするようになってきました。日本人が、もっと、ドイツの良さを知ることを私は心から望んでいます。
また、ドイツの人にも、より多く日本の良さを知っていただきたいと願います。私のこんどの展覧会が、そのために少しでも効果があれば、大きな幸いであります。私の講演をこれで終ることにいたします。
一九七五年十二月十日 ドイツ、ケルン市日本文化会館にて、「唐招提寺障壁画習作展」を開催した際の、ドイツ語による講演の邦訳。この展覧会は同年十月、パリでも開催された。
课文三 研修中の行動の特徴と推測される企業文化
今回の研修は、参加者が多くて、時間がタイトの中で、さらにセッション毎の参加人数のバラツキが激しくて、実習時間の配分及び進捗の調整が難しい状況の中で実施していました。このような状況において、大半の参加メンバーの努力及び協力のもとで無事に研修会が終了できました。皆様のご協力に感謝致しております。
研修会での行動雰囲気の特徴については、二回の実施とも、研修の初日、二日目、三日目はそれぞれの状況が違っていました。初日は、多くのメンバーの参画度が低くて、研修会に当たる自分の姿勢を模索しているように見受けられていました。また、研修会場で「実習の内容が仕事と関係ないから実践できない」、「体験学習の時間とボリュームを減らせば効率がよくなる」などの声があり、体験学習に対して慣れない様子が見受けられて、研修会に対して抵抗的な姿勢をとるメンバーがいました。二日目は、徐々に研修に対して真剣になり、特に職場の現状点検及びLIFO自己点検のセッションから皆が積極的に取り込んで、自分自身を振り返る姿勢が見受けられて、一部欠席したメンバーを抜いて、初日より参画度が高くなりました。三日目になると、「最初は面白くなかったが、ここまで来ると興味を持つようになり、もっと勉強したい」、「このような研修を今後も定期的に行うべき」などの声が聞こえて、研修会を受け入れて、自ら積極的に参画しようとするメンバーが多くなってきました。
ところで、研修中の出入りがかなり頻繁で、全てのセッションに欠席者がいるといえるほど、全体としての集中度が低かったです。トップの指摘や主催側のフィードバックを受けてからは、研修中の途中退場、無断欠席、電話、私語などが少なくなりますが、しばらくたつと、またも元に戻る傾向が見受けられていました。おそらく研修会だけではなく、職場でも同じ雰囲気があると推測します。今回の研修は会社の中間管理職が集まる会として、マナー遵守の意識の薄さ、他者への配慮の不足などが職場の雰囲気にも影響を与えていると察知致します。
课文四 「大分県の夕べ」主催者(知事)あいさつ
9月29日(水)18時
於:上海花園飯店
皆様、こんばんは。大分県知事の○○でございます。
上海市政府の皆様、上海の商業観光関係の皆様、並びにご臨席の皆様、本日は「大分県の夕べ」にお越しいただき、誠にありがとうございます。厚くお礼申し上げます。
5月に開幕した上海万博には、世界各国から多くの皆様が訪れ、大きな盛り上がりをみせる中、本日「九州沖縄ウィーク」が開幕いたしました。史上最大の万博で、九州沖縄各県がPRの場を設けさせていただく事は、大変光栄であり、上海市政府の関係者皆様のご尽力に、心から感謝を申し上げます。
さて、本日は、大分県が誇るものを3つご紹介させていただきたいと思います。
一つは、豊かな天然自然から生み出される大分の県産品です。県内には、くじゅうを中心とする山や高原があり、豊後水道に代表される美しい海があり、そこで産出される、豊後牛、椎茸、関アジ、ふぐなどが日本国内でも非常に有名です。今回は、このパーティーにも県産品を製造している企業の経営者が参加しており、会場内には商品の展示もしております。是非、手にとってご覧いただきたいと思います。
二つ目は、豊かな天然自然が織りなす美しい風景や、その自然の中に点在する歴史遺産、湧出量日本一の温泉などの観光資源です。会場内には観光タペストリーを掲出していますので、ご覧いただき、上海の皆様にも是非、見どころが多く、おいしいグルメがそろった大分県を訪れていただきたいと思います。
三つ目は、大分県で学ぶ多くの外国人留学生です。人口当たりの留学生数では、大分県は東京都を抜いて全国第1位です。留学生は世界約100の国や地域から集まり、上海からの留学生も数多くいます。
また、地域にとって非常に重要な存在で、多くの留学生が母国との懸け橋となっており、まさに大分県は、国際的な人材育成の地であるとともに、国際交流の拠点でもあります。
皆様方には、今後とも本県の一層の発展のためにご助言とご支援を賜るようお願い申し上げますとともに、是非とも、大分県の魅力を周りの皆様にも広めていただければ幸いです。
おわりに、ご臨席の皆様のご健勝と益々のご発展を祈念し、私のあいさつとします。ありがとうございました。
课文五 忘年会のスピーチ
一年経つのは、全く早いもので、ついこの間、年賀状を書いたと思ったら、次の賀状を書く時が来て、また忘年会ということになりました。この傾向は年ごとに強くなるようで、これは我々が多忙な毎日を送っている証拠ともいえますが、そのたびに皆さんの頭のほうに白いものが見えるように思われます。不愉快だったことや、つまらない思い出は、さっぱり忘れていただけましたら、幹事としまして、誠に嬉しい次第です。
年忘れの会ではありますが、ここでちょっとこの一年を振り返ってみるのも意義のあることと思います。
実は私は、毎日会社の帰りは王子の駅から電車に乗るのですが、時折、上野を出た寝台特急が走っていくのを見かけます。あれに乗って北海道へ行くのが私の夢ですが、あの列車の行き先表示板の「札幌」という文字を見るたびに、ああこの列車は青函トンネルを通って行くのだなと、いまさらながら本州とつながった北海道を思って感慨無量となります。今年は瀬戸大橋もできて、四つの島がつながった記念すべき年でした。
また当社では創立六十周年を祝い、還暦を迎えて、なお一層の飛躍を期した歴史に残る年でもございました。
今日は職場の序列とは関係なし、私は幹事で皆さんに楽しんでもらうプランを考えればよいはずでしたが、おしゃべりをしすぎたようです。別にもうお酒を飲んでいるわけでありませんが、どうも申し訳ありません。
取りたい休暇もなかなか取れず、お互いに今年もよく頑張ったものです。この世知辛い世にボーナスが出て年を越せることはありがたいと思います。どうか今宵だけは、文字通り無礼講ということで愉快に過ごしてください。ご馳走が並んでいるところでの長話は私の趣味に合いません。では部長から一言挨拶をお願いしたいと存じます。
第十七课 应用文的翻译
§§§第一节 广告词的翻译
课文一 手軽においしい水を!夏にうれしい浄水器
のどが渇いたときは、どんなにおいしいジュースよりも、つめたい水が一番!という人も多いはず。もし、水のにおいが気になるなら、家庭用の浄水器を使ってみよう。ポット型や蛇口取り付け型などスタイルや浄水方法もいろいろ。おいしくて体にいい水は、お茶や料理の味もグレードアップさせてくれるはず。
课文二 夏に欲しい最新デジタルカメラ
今年ももうすぐ夏休み、そろそろ旅行の計画やレジャーの予定が入り始めるころだ。そこで今回は夏の思い出をキレイに残す、最新デジタルカメラをご紹介。ちょっと前までは苦手だった夜の撮影や、素早く動くものの連写撮影なども、格段に美しく撮れるように進化したものばかりだ。
「何年か前に買ったから」という人も、最新機種を手にしてみてはいかが?
课文三 やわらかな花びらを重ねた可憐なバラはふんわりと咲く
やわらかな花びらを重ねて、ふんわりと咲く大輪のバラたちをあしらったデザイナーズアレンジメント「デビュタント」。
それはまるでデビューを待つ乙女のように可憐な印象が伝わってきます。花びらを濃淡に染めた豪華なバラ、甘いピンクの複色バラ、お洒落で小粋なクリームオレンジのバラ。それぞれのバラが個性を出して、一つの気持ちを伝えてくれます。リキュウソウも見ている人をワルツに誘うように楽しませてくれるでしょう。可愛らしく頬を染め、踊るような愛らしいアレンジメントです。
§§§第二节 政治宣言的翻译
课文一 新世紀中日民間友好宣言
新世紀を迎え、われわれ中日両国の友好団体の代表は北京に集い、21世紀の中日友好交流および協力推進という議題について話し合いを行った。これを受けて、われわれ中日両国の友好団体は共同で次のような宣言を発表する。
1.双方は、中日両国の友好団体および各界の人々はこれまで、中日国交正常化、中日平和友好条約の締結、中日関係の発展のために多大な努力を尽くし、重要な役割を発揮したと考えている。21世紀を迎え、われわれは友好的伝統を引き継ぎ、発展させ、民間としての役割を引き続き発揮するべきである。また両国が政治、経済、科学技術、文化、教育、スポーツ、人々の交流、地方政府など各分野での交流や協力をさらに推進することにより、両国民は中日の友好を幅広く、新たな段階へと押し上げることが重要である。
2.われわれは中日友好精神を発展させ、中日共同声明中日平和友好条約中日共同宣言を守り、中日関係を健全かつ安定的に発展させなければならない。両国が平和的かつ発展的な友好協力パートナーシップ関係を築くことは、両国ならびに両国民の基本的利益に合致するだけでなく、アジア地域ひいては世界の平和と繁栄に役立つ。
3.中日両国は一衣帯水の隣国であり、2千年以上にも及ぶ友好交流の歴史を有している一方、不幸な時期を経験した。われわれは歴史を鏡とし、未来へ目を向けるという精神に則り、この不幸な歴史を適切に扱い、そこから教訓を汲み取り、中日友好のために努力する。
4.中日経済協力は、新世紀の中日友好協力における重点であり、われわれは、両国の互恵協力の推進に努力する。アジア地域は平和と発展を続けており、中日両国の経済界もさらに連携を強化し、東アジア地域の経済協力を促進するために努力する。
5.中日友好とはつまり、21世紀の中日友好であり、両国人民の相互理解と信頼感を強化することは極めて重要である。21世紀の中日友好は、両国人民のさらなる協力に託されており、さらに両国の青年に期待が寄せられている。われわれは、ともに努力し、両国の青少年の交流をさらに拡大し、より内容の豊富な交流活動を行い、中日友好事業を引き続き人材の育成を急ぐことにより、中日友好という大事業を後の世代に伝えていくことを呼びかける。
第十八课 新闻日语
§§§第一节 社论的翻译
课文一 たまごっち――春の夜の夢の如し
爆発的ヒット商品だった「たまごっち」の売れ行きが急激に落ち、発売元には在庫の山。業績悪化の責任を問われ、社長は降格処分されたそうだ。「最後には社長を消したタマゴッチ」と時事川柳にもあった。
一時の隆盛、狂騒を思い返せば、ふと『平家物語』の有名な冒頭部分が思い浮かぶ。〈祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す〉というあれだ。いっさいのものは、つねに変化する。盛んなものも必ず衰える。〈ただ春の夜の夢の如し〉なのである。
本紙には1996年の11月末、新製品紹介の形で初めて「たまごっち」の二ユースが出た。続いて、二日前から行列しても買えないほどの人気沸騰。中学生が「たまごっち」を脅かし取ったとか、盗難あいつぐといった記事が載る。
育児読み本、母子手帳などと銘打った解説、研究本がベストセラーに名を連ねた。翌年には海外に進出。たとえばイギリスでは、授業中に勉強そっちのけで世話をする子や、「ペットが死んだ」と泣きじゃくる子が現れたため、持ってくるのを禁止する学校が続出している、と報じられた。
電車の中で女子高生が「私の赤ちゃんが風邪ひかないように」と編み物をしている。仰天してみたら、横に「たまごっち」があった。或いは、ストレスのたまった高校生が、育ったペットにえさをやらない「たまごっち殺し」をしている。そんな話も流れた。
去年8月には、あのオックスフォード辞典の新版に「tamagotchi」が採用された。しかし、それが、おそらく最後の栄光。ブームは急にしぼむ。人気とは、上滑りで残酷なものだ。熱しやすく冷めやすいのは、洋の東西を問わない。
これまで本紙に載った「たまごっち」関係の記事は約680件。切り抜けを繰ると、我ら人間の自画像を見ているような気分になる。(1999年3月13日「朝日新聞」より)
课文二 懲役3年
裁判長は、最後に言った。「たとえ親であっても、高齢者であっても、人を殺してはいけません。同情はしますが、法はあなたの行為を許しません」。
おととい愛知県の裁判所で、96歳の母親に懲役3年の実刑判決が言い渡された。重度の知的障害者だった63歳の四男と無理心中をはかり、殺人の罪に問われていた。母親は相当耳が遠い。裁判長はマイクを握り、車いすに乗った母親のそばにはスピーカーが置かれた。
四男が生後6ヵ月のころ、母親は彼をおぶったまま自転車で転んだ。その後、知的障害があると診断された。小学校は2年遅れて出た。転んだせいだと母親は思い続けた。36歳のとき施設に入った。夫と死別した母親は、面会日には欠かさず息子を訪ね、お盆や正月は自宅に迎えた。
母親は8年前に長男一家と同居をした。体が弱くなっていた。遠慮が先に立ち、四男の帰省期間を短くした。できるだけ自室で、二人だけで過ごした。去年の暮れ、正月を一緒に過ごすため、長男が車で四男を連れ帰った。元日、母親は四男と二人だけで夕食をとり、自室に戻った。
息子の寝顔を見ながら、「体が衰え、面倒を見られなくなるのではないか「自分が死んだ後、一人だけ残しても仕方がない」などと思い悩んだ。翌早朝、寝巻きの腰ひもで首をしめた。それから遺書を書き、自分も同じ腰ひもで首をつった。だが死にきれなかった。
実刑について、判決はいくつか理由を挙げた。四男の将来に経済的な心配はそれほどなかったこと。彼の施設は死ぬまで入所できたこと。本人は簡単な身の回りの世話はできたし、周囲に迷惑もかけなかったこと。母親が誰にも相談しなかったこと。
「あえて殺害する切迫した状況ではなかった。息子がもっとも信頼していた母親が、命を私物化した。動機は独りよがりだ。」判決はそう断じた。(1998年6月26日「朝日新聞」より)
课文三 人生は旅である
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」。芭蕉の「奥の細道」の冒頭だ。この「月日は永遠の旅人……」の一節からは、月日の上を歩む人もまた旅人かといった連想も浮かんでくる。
「人生とは旅であり、旅とは人生である」。サッカーの日本代表、中田英寿選手の「引退宣言」の見出しに、そんな文言があった。29歳の青年と、「人生とは旅……」との取り合わせに、面白みを覚えた。
確かに、サッカーの世界では、多くの旅を重ねてきた。国内にとどまらず、外国に進出した。日本選手のさきがけのひとりで、時代のフォワードだった。
ゲームでの働きも、その風貌(ふうぼう)にも、独特の存在感があった。何かに噛(か)み付いてゆく、たけだけしさを備えていた。その姿が見られなくなることには、一抹の寂しさがある。しかし「中田英寿の旅」は、まだこれからも続く。
歌集「独り歌へる」に、「私は常に思つて居る、人生は旅である」と記したのは、若山牧水だった。サッカーとは懸け離れた世界に住んだが、やはり、独特の働きと風貌とを備えていた。牧水は続ける。「我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ、その間の一歩々々の歩みは実にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない」月日は永遠であり、途絶えることがない。人の方は、世代というもので連綿と連なっているが、ひとりの人間にとっては、一度行き着けば繰り返しは無い。その一度だけの、いわば片道の旅の重さや悲哀や妙味を、改めてかみしめた。
「天声人語」2006年7月5日(水曜日)付
课文四 証人喚問の沈黙が語るもの
「申し訳ございません。拒絶させてもらいます」。耐震強度の偽装事件をめぐる国会の証人喚問で、小嶋進ヒューザー社長の回答拒否は30回近くに及んだ。
テレビの中継を見て、歯がゆい思いをした人も多かっただろう。しかし法律では、正当な理由があれば証言を拒否できると定められている。自己に不利益な供述を強要されないという憲法の規定もある。
拒否が連発された喚問には、ほとんど意味がなかったかといえば、そうではない。小嶋社長が回答を拒んだのは、こんな項目についてだった。「構造計算書の偽造を、いつ、どこで知ったか」「ヒューザーで急きょ開かれた会議の内容」「販売中のマンションが問題物件だと、いつ認識したのか」。
いずれも、事件の核心部分にあたる。回答を拒むのは認められた権利の行使だが、証人にとっては不利な事態を招く一面もある。肝心なところで明確に否定しないことで、暗に認めたとも取られかねないからだ。世間が、やはり後ろ暗いところがあるのかといった見方に傾くとしても、口を開くよりはいいと考えたのだろうか。「黙して語らず」というが、黙してもなお語るところがあったように思う。
フランスの政治思想家で法学者だったモンテスキューが述べている。「自由とは法律の許すすべてをなす権利である」(『法の精神』岩波文庫)。
国会で黙された部分の実相が、「法律の許すすべて」の範囲を踏み外していなかったかどうか。その究明はこれからだが、沈黙は、問題のありかを繰り返し指し示していた。
『朝日新聞』 200年1月19日
§§§第二节 新闻报道的翻译
课文一 楽天脱退 退出――財団は進取の精神を
楽天が、経団連に退会届を出した。電力事業のあり方などをめぐり、方向性の違いが明らかになったためだという。
会長兼社長の三木谷浩史氏は、楽天をネット業界を代表する企業に育て上げた起業家だ。TBS株の買収などで物議をかもしたりもしたが、破天荒で従来の経営スタイルを壊すイメージが強い旧ライブドア時代の堀江貴文氏らと比べると、財界人の受けもよかった。
その三木谷氏でも、今の財界は見切りをつけざるをえない対象ということらしい。
確かに、東日本大震災後の経団連の動きは、ずいぶん鈍い。民主党政権への不満や批判こそ目立つものの、自らの提言や行動に新味はない。とりわけ、原発事故への対応や発電と送電の分離をはじめとする電力改革問題については、米倉弘昌会長による現状追認、電力業界寄りの発言が繰り返されている。
電力会社は、財力の面でも政治力の面でも、財界の中心的な存在として君臨してきた。
他の産業にとって、地域独占と安定した料金体系に守られた電力業界は、言い値で素材やサービスを買ってくれる上客でもある。表だって電力業界を批判したり、電力改革を打ち出したりはしにくいとの本音も聞く。
だが、そうした遠慮が変革への動きを鈍らせているのだとしたら、おかしな話だ。
震災や原発事故を機に、電力を取り巻く環境は大きく変わった。電力供給不足は経済活動にとって大きな懸念材料だが、一方で、再生可能エネルギーへのシフト、効率的で透明性の高い電力供給の再整備、省エネ化や節電といった需要側の改革などには、新しいビジネスの芽があふれている。
欧米ではこうした分野で新しい企業が次々に生まれている。国内でも、自治体と組んで自然エネルギーの普及を目指すソフトバンクや、スマートシティーの開発に取り組むパナソニック、太陽光発電所の経営へと乗り出すシャープなど、個別企業の動きはある。