书城社会科学翻译理论与实践
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第15章 实践篇(1)

第十五课 文学作品的翻译

§§§第一节 小说

课文一 1Q84 (抄訳)

§§§第一章 青豆   見かけにだまされないように

タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエック』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先に立って不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。青豆は後部席のシートに深くもたれ、軽く目をつむって音楽を聴いていた。

ヤナーチェックの『シンフォニエック』の冒頭部を耳にして、これはヤナーチェックの『シンフォニエック』だと言い当てられる人が、世間にいったいどれくらいいるだろう。おそらく「とても少ない」と「ほとんどいない」の中間くらいではあるまいか。しかし青豆にはなぜかそれができた。

ヤナーチェックは一九二六年にその小振りなシンフォニエックを作曲した。冒頭のテーマはそもそも、あるスポース大会のためのファンファーレとしてつくられたものだ。青豆は一九二六年のチェコスロバキアを想像した。第一次大戦が終結し、長く続いたハプスブルク家の支配からようやく解放され、人々はカフェでピルゼンビールを飲み、クールでリアルな機関銃を製造し、中部ヨーロッパに訪れた東の間の平和を味わっていた。フランツカフカは二年前に不遇のうちに世を去っていた。ほどなくビットラーがいずこからともなく出現し、その小ぢんまりした美しい国をあっという間にむさぼり食ってしまうのだが、そんなひどいことになるとは、当時まだ誰ひとりとして知らない。歴史が人に示してくれる最も重要な命題は「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」ということかもしれない。青豆は音楽を聴きながら、ボヘミアの平原を渡るのびやかな風を想像し、歴史のあり方について思いをめぐらせた。

一九二六年には大正天皇が崩御し、年号が昭和に変わった。日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。

歴史はスポーツとならんで、青豆が愛好するもののひとつだった。小説を読むことはあまりないが、歴史に関連した書物ならいくらでも読めた。歴史について彼女が気に入っているのは、すべての事実が基本的に特定の年号と場所に結びついているところだった。歴史の年号を記憶するのは、彼女にとってそれほどむずかしいことではない。数字を丸暗記しなくても、いろんな出来事の前後左右の関係性をつかんでしまえば、年号は自動的に浮かび上がってくる。中学と高校では、青豆は歴史の試験では常にクラスで最高点をとった。歴史の年号を覚えるのが苦手だという人を目にするたびに、青豆は不思議に思った。どうしてそんな簡単なことができないのだろう?

青豆というのは彼女の本名である。父方の祖父は福島県の出身で、その山の中の小さな町だか村だかには、青豆という姓をもった人々が実際に何人かいるということだった。しかし彼女自身はまだそこに行ったことがない。青豆が生まれる前から、父親は実家と絶縁していた。母方も同じだ。だから青豆は祖父母に一度も会ったことがない。彼女はほとんど旅行をしないが、それでもたまにそういう機会があれば、ホテルに備え付けられた電話帳を聞いて、青豆という姓を持った人がいないか調べることを習慣にしていた。しかし青豆という名前を持つ人物は、これまでに彼女が訪れたどこの都市にも、どこの町にも、一人として見当たらなかった。そのたびに彼女は大海原に単身投げ出された孤独な漂流者のような気持ちになった。

名前を名乗るのがいつもおっくうだった。自分の名前を口にするたびに、相手は不思議そうな目で、あるいは戸惑った目で彼女の顔を見た。青豆さん?そうです。青い豆と書いて、アオマメです。会社に勤めているときには名刺を持たなくてはならなかったので、そのぶん煩わしいことが多かった。名刺を渡すと相手はそれをしばし凝視した。まるでだし抜けに不幸の手紙でも渡されたみたいに。電話口で名前を告げると、くすくす笑われることもあった。役所や病院の待合室で名前を呼ばれると、人々は頭をあげて彼女を見た。「青豆」なんていう名前のついた人間はいったいどんな顔をしているんだろうと。

ときどき間違えて「枝豆さん」と呼ぶ人もいた。「空豆さん」といわれることもある。そのたびに「いいえ、枝豆(空豆)ではなく、青豆です。まあ似たようなものですが」と訂正した。すると相手は苦笑しながら謝る。「いや、それにしても珍しいお名前ですね」という。三十年間の人生でいったい何度、同じ台詞を聞かされただろう。どれだけこの名前のことで、みんなにつまらない冗談を言われただろう。こんな姓に生まれていなかったら、私の人生は今とは違うかたちをとっていたかもしれない。たとえば佐藤だとか、田中だとか、鈴木だとか、そんなありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたかもしれない。あるいは。

青豆は目を閉じて、音楽に耳を澄ませていた。管楽器のユニゾンの作り出す美しい響きを頭の中にしみこませた。それからあることにふと思い当った。タクシーのラジオにしては音質が良すぎる。どちらかといえば、小さな音量でかかっているのに、音が深く、倍音がきれいに聞き取れる。彼女は目を開けて身を前に乗り出し、ダッシュボードに埋め込まれたカーステレオを見た。機会は真っ黒で、つややかに誇らしそうに光っていた。メーカーの名前までは読み取れなかったが、見かけからして高級品であることはわかった。たくさんのつまみがつき、緑色の数字がパネルに上品浮かび上がっている。おそらくはハイエンドの機器だ。普通の法人タクシーがこんな立派な音響機械を車に装備するはずがない。

课文二 坊ちゃん(抄訳)

夏目漱石

教員が控所[1]へ揃うには一時間目の喇叭が鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、追々[2]ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑み込んで[3]おいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義[4]を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ[5]所へ来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような無鉄砲[6]なものをつかまえて[7]、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの[8]、学問以外に個人の徳化を及ぼさ[9]なくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ[10]。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩もできない。そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされてきたのだとあきらめて、思い切りよく[11]、ここで断って帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから財布の中には九円なにがし[12]しかない。九円じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやら足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせて[13]おれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。そのくらいよく知ってるなら、始めから威嚇さなければいいのに。

そう、こうする内に喇叭が鳴った。教場の方が急にがやがやする。もう教員も控所へ揃いましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。広い細長い部屋の周囲に机を並べてみんな腰をかけている。おれが入ったのを見て、みんな申し合せたように[14]おれの顔を見た。見世物じゃあるまいし。それから申しつけられた通り一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶をした。大概は椅子を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入った[15]のは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを恭しく返却した。まるで宮芝居[16]の真似だ。十五人目に体操の教師へと廻って来たときには、同じ事を何返もやるので少々じれったく[17]なった。向うは一度で済む。こっちは同じ所作を十五返繰り返している。少しはひとの了見[18]も察してみるがいい。

挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。いくらか[19]薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤いシャツだから人を馬鹿にしている。あとからきいたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があったものだ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂らえる[20]んだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴[21]も赤にすればいい。それから英語の教師に古賀とか云う大変顔色の悪い男が居た。大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。昔小学校へ行く時分、浅井の民さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子[22]ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬いだと思う。この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違いない。もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。大方清も知らないんだろう。それからおれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。これは逞しい毬栗坊主[23]で、叡山の悪僧と云うべき面構[24]である。人が叮寧に辞令を見せたら、見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。何がアハハハだ。そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。漢学の先生はさすがに堅いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご励精で、――とのべつに[25]弁じたのは愛嬌のあるおじいさんだ。画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした透綾[26]の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え?東京?そりゃ嬉しい、お仲間ができて……私もこれで江戸っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸にはうまれたくないもんだと心中に考えた。そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし、際限がないからやめる。

课文三 刺青(抄訳)

芥川龍之介

それはまだ人々が「愚か」という貴い徳をもっていて、世の中が今のように激しくきしみあわない時分であった。殿様や若旦那の長閑な顔が曇らぬように、御殿女中や花魁の笑の種が尽きぬようにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間だのという職業が立派に存在して行けたほど、世間がのんびりしていた自分であった。女定九郎、女自雷也、女鳴神、──当時の芝居で、草双紙でも、すべて美しいものは強者であり、醜いものは弱者であった。誰も彼もこぞって美しいからむとつとめたあげくは、天稟の体へ絵の具を注ぎ込むまでになった。芳烈な、あるいは絢爛な、線と色とがその頃の人々の肌に躍った。

馬道を通うお客は、見事な刺青のあるかごかきを選んで乗った。吉原、辰已の女も美しい刺青の男に惚れた。博徒、鳶の者はもとより、町人から稀には侍なども入墨をした。時々両国で催される刺青会では参会者おのおの肌を叩いて、お互いに奇抜な意匠を誇りあい、評しあった。清吉という若い刺青師の腕利きがあった。浅草のちやり文、松島町の八平、こんこん次郎などに劣らぬ名手であるとお手囃されて、何十人の人の肌は、彼の絵筆の下に滑地(ぬめぢ)となったものであった。達磨金はぼかし刺が得意と言われ、唐草権太は朱刺の名手と讃えられ、清吉は又奇警な構図と妖艶な線とで名を知られた。もと豊国国貞の風を慕って、浮世絵師の渡世(とせい)をしていただけに、刺青師に堕落してからの清吉にもさすが画工らしい良心と、鋭感とが残っていた。彼の心をひきつけるほどの皮膚と骨組みとを持つ人でなければ、彼の刺青を購う(あがなう)わけにはいかなかった。たまたま描いてもらえるとしても、一切の構図と費用とを彼の望むがままにして、その上堪えがたい針先の苦痛を、一と月と二た月もこらえねばならなかった。この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願とが潜んでいた。彼が人々の肌を針で突き刺すとき、真紅に血を含んで腫れあがる肉の疼きに耐えかねて、大抵の男は苦しき呻き声を発したが、そのうめき声が激しければ激しいほど、彼は不思議に言い難い愉快を感じるのであった。刺青のうちでも殊に痛いと言われる朱刺、ぼかしぼり、──それを用いることを彼はことさら喜んだ。一日平均五六百本の針に刺されて、色あげを良くするため湯へ浸かって出てくる人は、皆半死半生の体で清吉の足下に打ち倒れたまま、しばらくは身動きさえもできなかった。その無残な姿をいつも清吉は冷やかに眺めて、

さぞお痛みでがせうなあ

と言いながら、快さそうに笑っていた。

意気地のない男などが、まるで知死期の苦しみのように口を歪め歯を食いしばり、ひいひいと悲鳴をあげることがあると、彼は、

お前さもん江戸っ児だ。辛抱しなさい。──この清吉の針は飛びきりに痛えのだから

こう言って、涙にうるむ男の顔を横目で見ながら、かまわず彫っていった。また我慢づよいものがぐっと胆を据えて、眉一つしかめずこらえていると、

ふむ、お前さんは見かけによらねえ突っ張者だ。──だが見なさい、今にそろそろ疼き出して、どうにもこうにもたまらないようにならうから

と、白い歯を見せて笑った。

彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへ己れの魂を刺り込むことであった。その女の素質と容貌とについては、いろいろの注文があった。ただに美しい顔、美しい肌とのみでは、彼は中々満足することができなかった。江戸の中の色町に名を響かせた女という女を調べても、彼の気分にかなった味はひと調子とは容易に見つからなかった。まだ見ぬ人の姿かたちを心に描いて、三年四年は空しくあこがれながらも、彼はなおその願いを捨てずにいた。

ちょうど四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかったとき、彼はふと門口に待っているかごの簾のかげから真っ白な女の素足のこぼれているのに気がついた。鋭い彼の目には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持って映った。その女の足は、彼にとっては、貴き肉の宝玉であった。親指から起こって小指に終わる繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺でとれるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵の丸味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつけるあしであった。この足を持つ女こそは、彼が永年たずねあぐんだ、女の中の女であろうと思われた。清吉は躍りたつ胸を押さえて、その人の顔が見たさにかごのあとを追いかけたが、二三町行くと、もうその影は見えなかった。清吉の憧れごこちが、激しい恋に変ってその年も暮れ、五年目の春も半ば老い込んだある日の朝であった。彼は深川佐賀町の寓居で、房楊枝をくわえながら、錆竹の濡れ縁に万年青の鉢を眺めていると、庭の裏木戸を訪う気配がして、袖垣のかげから、ついぞ見慣れぬ小娘が入ってきた。

それは清吉が馴染みの辰已の芸妓から寄こされた使いの者であった。

姐さんからこの羽織を親方へお手渡しして、何か裏地へ絵模様を画いてくださるようにお頼み申せって……

と、娘は鬱金(うこん)の風呂敷をほどいて、中から岩井杜若の似顔画のたたうに包まれた女羽織と、一通の手紙とを取り出した。

その手紙には羽織のことをくれぐれも頼んだ末に、使いの娘は近々に私の妹分として御座敷へ出る筈故、私の事も忘れずにこの娘も引き立ててやってくださいとしたためてあった。

どうも見覚えのない顔だと思ったが、それではお前はこのごろこっちへこなすったのか

こう言って清吉は、しげしげと娘の姿を見守った。年頃は漸う十六か七かと思う割れたが、その娘の顔は、不思議にも長い月日を色里に暮らして、何十人の男の魂を弄んだ年増しのようにものすごく整っていた。それは国中の罪と財との流れ込む都の中で、何十年の昔から行き代わり死にかわったみめ麗しい多くの男女の、夢の数々から生れ出づべき器量であった。

お前は去年の六月ごろ、平清からかごで帰ったことがあろうがな

こう尋ねながら、清吉は娘を縁へかけさせて、備後表の台に乗った巧緻な素足を仔細に眺めた。

ええ、あの時分なら、まだお父さんが生きていたから、平清へもたびたびまいりましたのさ

と、娘は奇妙な質問に笑って答えた。

ちょうどこれで足かけ五年、己はお前を待っていた。顔を見るのは初めてだが、お前の足には覚えがある。──お前に見せてやりたいものがあるから、上ってゆっくり遊んで行くがいい

と、清吉は暇を告げて帰ろうとする娘の手を取って、大川の水に臨む二階座敷へ案内した後、巻物を二本取り出して、まずその一つを娘の前に繰りひろげた。

それは古(いにしえ)の暴君紂王(ちゅうおう)の寵妃、末喜(ばつき)を描いた絵であった。瑠璃珊瑚(るりさんご)を鏤めた金冠の重さに得堪えぬなよやかな体を、ぐったり勾欄(こうらん)に靠れて、羅綾(らりょう)の裳裾を階(きざはし)の中段にひるがえし、右手に大杯を傾けながら、いましも庭前に刑せられんとする犠牲(いけにえ)の男を眺めている妃の風情といい、鉄の鎖(くさり)で四肢を銅柱へ結いつけられ、最後の運命を待ち構えつつ、妃の前に頭をうなだれ、眼を閉じた男の顔色といい、ものすごいまでに巧みに描かれていた。

娘はしばらくこの奇怪な絵の面を見入っていたが、知らず知らずその瞳は輝きその唇は震えた。怪しくもその顔はだんだんと妃の顔に似通ってきた。娘はその所に隠れた真の「己」を見出した。

「この絵にはお前の心が映っているぞ。」

こう言って、清吉は快げに笑いながら、娘の顔を覗き込んだ。

「どうしてこんな恐ろしいものを、私にお見せなさるのです」と娘は青ざめた額をもたげて言った。

「この絵の女はお前なのだ。この女の血がお前の体に交っているはずだ。」と彼はさらにほかの一本の画幅を広げた。

それは「肥料」という画題であった。画面の中央に、若い女が桜の幹へ身を寄せて、足下に累々と倒れている多くの男たちの屍骸(むくろ)を見つめている。女の身辺を舞いつつ凱歌(かちどき)をうたう小鳥の群れ、女の瞳に溢れたる抑えがたき誇りと歓びの色。それは戦いの跡の景色か、花園の春の景色か。それを見せられた娘は、われとわが心の底に潜んでいた何物かを、探りあてたる心地であった。

「これはお前の未来を絵に現わしたのだ。ここに斃れている人たちは、皆これからお前のために命を捨てるのだ」

…………(中略)

きのうとうってかわった女の態度に、清吉は一方ならず驚いたが、言われるままに一人二階に待っていると、およそ半時ばかり経って、女は洗い髪を両肩へすべらせ、身じまいを整えて上がってきた。そうして苦痛のかげもとまらぬ晴れやかな眉を張って、欄干にもたれながらおぼろにかすむ大空を仰いだ。

この絵は刺青といっしょにお前にやるから、それを持ってもう帰るがいい。

こう言って清吉は巻物を女の前にさし置いた。

親方、私はもう今までのような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。――おまえさんは真っ先に私の肥料(こやし)になったんだね。と女は剣(つるぎ)のような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声が響いていた。

帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ。

清吉はこう言った。

女は黙ってうなずいて肌を脱いだ。折から朝日が刺青のおもてにさして、女の背中は燦爛とした。

§§§第二节 散文

课文一 旅は人生みたい

日本はすみずみまで美しいところである。四季折々の色彩が流れ、風景がびみょうに変化する。変化のそのあわいが、人の精神にも深い影響をおよぼす。精神はその時々にリズミカルに変わっていき、それが人に生きる喜びを与えてくれるのだ。

山も海もさることながら、この国で最も美しいのは農地だ。雪にやわらかく覆われていた大地が、時の流れとともに、すこしずつぬれた黒い肌を広げていく。よく晴れた日など、ぬくまった地面から白く細い糸のような湯気が立つ。土の中では、微生物の働きが活発になる。その土は掘り返され、空気の通りがよくなって、新しい季節への息吹がようやく始まるのだ。

もともとは山から湧き出した水が、水路を通って流れ下り、鈴のような澄んだ音をたてて田んぼに導かれてくる。風景は一瞬にして変わるのだ。水によって生命が吹き込まれる。この季節、私たちの大地は水の星になるのである。桜も散り、ようやく緑に染まった山に、山桜のピンクが淡く散っている。そんな山が水に映り、野はにわかに華やかになってくるのである。

もちろん人の心も華やぎ、野には自然に対する恋愛のような感情が満ちるのだ。生きとし生けるすべての細胞が脈動してくる。

この季節、私は夜の棚田の光景を思い浮かべる。棚田には二株か三株しか稲を植えることのできない小さな田も漏らさず、すべての田に水が張られている。鏡の破片を埋め込んだような大地の上には、満月が出ている。その月がひとつひとつの水面に映っているのだ。月ほどの田に映らないというのではない。まんべんなく黄金の光を降りそそぐ。天上に一つとそれに田の数だけある月は、ぬれもせず、減りもしない。風はなく、静かな風景である。この景色を眺め、この風景の中にいる私は、永遠の中にたたずんでいるのである。

田植えが始まると、野には人間たちのあからさまな喜びの声が広がるのだ。土に働きかければ、必ずこたえてくれる。季節は毎年違い、暑い時もあれば、寒さの夏もある。自然の変化を解読し、人はその年の追肥の組み立てを考える。これをおこたれば、結果は見えているのだ。五十年米作りをしている人は、その五十年間同じ年は二つとしてなく、いつも一年生だと笑う。水分と肥料分をたっぷり含んだ柔らかな土が、まだ心細い稲の苗の白い根をがっちりと受け止める。水に沈んでいるような幼い葉は、根が吸い上げる養分と水分によって立ち上がっていく。太陽も天から惜しみなく照りつける。

除草剤で一気に処理するのでなければ、草取りは難儀な仕事だ。雑草と呼ばれる草も、イネ科の植物が多くて、その生息環境は彼らにとってまことに好ましいのである。新鮮な水はあるし、栄養分もたっぷりとある。天と地の間で生きる力といえば、稲に負けるものではない。稲は懸命に伸びて力いっぱい土をつかんでいるから、引っ張っても簡単に抜けない。草取りの人間のそばからいえば、屈んでやる仕事の上、太陽が頭上と水面と二方向から照りつけるので、苦しいことこの上ない。こうして人の苦労を吸って、稲はすくすくと育っていく。

课文二 文京区千石と猫のピーター

村上春樹

三鷹のアパートで二年暮らしてから、文京区の千石(せんごく)というところに引っ越した。小石川植物園の近くである。

どうして郊外からまた一気に都心に戻ってきたかというと、結婚したからである。僕は22でまだ学生だったから女房の実家に居候(いそうろう)させてもらうことにしたのだ。

女房の実家は布団屋をやっていたので、そのトラックを借りて引っ越しをした。引越しといっても、荷物は本と服と猫くらいしかない。猫はピーターという名前で、ペルシャと虎猫の混血の、犬みたいに大きな雄猫だった。

本当は布団屋さんじゃ猫は飼えないから連れてきちゃだめだと言われてたのだけれど、どうしても置いていくことができなくて、結局は連れてきてしまった。

女房の父親はしばらくぶつぶつ言ってたけどそのうちに──僕に対するのと同じように──あきらめてくれた。とにかくなんでもかんでもすぐにあきらめてくれる人で、その点については僕はすごく感謝している。

しかし猫のピーターは最後まで都会生活になじむことはできなかった。いちばん困ったのはあたりの商店からのべつまくなしモノをかっぱらってくることだった。

もちろん本人には罪の意識はまるでない。なぜなら彼は生れてこのかた三鷹の森の中でモグラをとったり鳥を追いかけたりして生きてきたからである。モノがあればとる。当然である。

でも、猫にとっては当然のことでも、こちらとしては立場上すごく困る。そのうちに猫のほうでもだんだん価値観が錯乱してきたようで慢性の神経性下痢になってしまった。

結局ピーターは田舎の知り合いにあずけられることになった。それ以来彼には一度も会っていない。話によると近所の森の中に入ったきりで家でもほとんど戻ってこないそうである。生きていれば13か14になる。

『村上朝日堂』  新潮文庫  1987年

课文三 侏儒の言葉——好悪

芥川龍之介

わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我々の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我々の好悪である。或いは我々の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。

ではなぜ我々は極寒の天にも、将(まさ)に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか?救うことを会とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度によったのであろう?より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度によらぬはずである。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水と淡水とのように、一つに溶け合っているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか?且つ又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或いは柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教の成人たちは大抵マソヒズムに罹っていたらしい。

我々の行為を決するものは昔の希臘人の云った通り、好悪の外にないのである。我々は人生の泉から、最大の味をくみ取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと無かれ。』耶蘇さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟荊棘の道にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。

§§§第三节 戏剧的翻译

引言

台词(part/dialog/line)是戏剧表演中角色所说的话语。是剧作者用以展示剧情,刻画人物,体现主题的主要手段。也是剧本构成的基本成分。

台词是构成一个剧本的基石,是剧本不可或缺的因素。没有台词,就没有剧本,没有人物的冲突,更没有剧情的发生、发展、高潮和结局。剧中的任务,或称之为角色,必须通过台词才能表达各自的身份、地位、性格、特点等。由此可见台词在剧本中的重要性。由于戏剧不像小说等文学样式那样由作者出面向读者叙述,只能依靠人物自身的语言与动作来表达一切,因此台词是戏剧舞台上唯一可以运用的语言手段,台词的写作与安排成为剧作技巧的重要组成部分。

台词具有以下四个特点:

一、台词必须具有动作性

戏剧是行动的艺术,它必须在有限的舞台演出时间内迅速地展开人物的行动,并使之发生尖锐的冲突,以此揭示人物的思想、性格、感情。这就要求台词服从戏剧行动,具备动作的特性。台词的动作性首先在于它能够推动剧情的进展。剧本中每个角色的台词都应当产生于人物的性格冲突之中,成为人物对冲突的态度与反应的一种表露,并且能够有力地冲击冲突对手的心灵,促使对方采取新的行动更积极地投入冲突,从而把人物关系、戏剧情节不断推向前进。台词的动作性更在于它能够揭示人物丰富复杂的内心活动。一般有两种表现方式,一种是直抒胸臆,一种是“潜台词”。直抒胸臆的台词有时通过独白来进行;潜台词包含有复杂隐秘的未尽之言与言外之意,它可以具体表现为一语双关、欲言又止、意在言外、言简意赅等多种形式。台词的动作性还在于它能为演员在表演时寻找准确的舞台动作提供基础。戏剧创作的最后完成必须通过舞台演出,因此,台词的写作必须考虑到表演艺术创造的需要,使演员在舞台上能动得起来,把角色的内心世界形象地再现在观众面前。

二、台词必须性格化

剧本中人物形象的塑造只能依靠人物自己的台词和行动来完成,而且必须在有限的时空里进行,这两个因素对剧本台词的性格化提出了很高的要求。要使台词性格化,首先必须根据人物的出身、年龄、职业、教养、经历、社会地位以及所处时代等等条件,掌握人物的语言特征。力戒千部一腔、千人一面。其次,台词的性格化还要求剧作者牢牢把握人物性格的发展,把握戏剧情境的变化,把握人物错综复杂的相互关系,写出此时此地、此情此景中人物惟一可能说出的话。不仅剧本中不同人物的台词不能相互混淆,就是同一人物在不同戏剧场面中的台词也不能任意调换。实现台词性格化的关键是剧作者熟悉生活、熟悉笔下的人物,并且在写作时深入到人物的灵魂深处,设身处地地体会人物的内心感情,揣摩人物表达内心的语言方式与特点。

三、台词要诗化

戏剧要在有限的时空条件内通过人物的台词在观众面前树立起鲜明的艺术形象,使观众受到感染,为人物的命运而动心,这就要求剧本的台词具有诗的特质、诗的力量。台词的诗化并不意味着都要采用诗体,而是要让诗意渗透在台词之中。因此台词必须感情充沛,富于感染力;形象鲜明,富有表现力;精炼、含蓄,力求用最简洁、最浓缩的词句来表达丰富的内容与深远的意境。

四、台词要口语化

要使观众清楚明了地看懂剧情,理解人物,接受剧作者对生活的解释,台词就必须明白浅显、通俗易懂,具有口语化的特点。口语化使台词富于生活气息、亲切自然。民间语言如成语、谚语、歇后语,乃至俚语的适当运用,有助于台词的口语化。在注意口语化的同时,也需要注意语言的规范化和纯洁性,要注意对生活语言的提炼、加工,使之成为形象生活的艺术语言。

因此,我们在翻译台词的时候,要充分考虑到台词的以上特点,才能将人物的性格跃然纸上。下面来看一些台词的翻译。